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心にうつりゆくこと

物事の屋台骨は目立たぬ存在が担っていることを知る

年上の友人の家へ行った。
お昼をごちそうになりながら、おしゃべりをした。
友人はさすがいろんな経験をしてきただけあって雄弁だ。
その中で、
「楽しいことをしていると人が集まってくる」
「人をどうやって楽しくさせようか考えて企画するのは自分も楽しい」

というお話が、きょうは特に印象に残った。

友人は踊りの会をプロデユーサー的な役割として
取り仕切ったことがあるという。
市井の踊りの会で、踊り手がみんな巧いわけではない。

でも、踊り手の友だちや家族や知り合いの人たちが
ささやかながら集まって踊りを見る。
そして同時に、
催し自体のもつ華やいだ雰囲気や、
お弁当やら撒きものなどをもらう非日常を楽しむ。

そんなとき、
会場にちょっとしたプラスアルファの驚きがあって

思わずニッコリするようなしつらえが用意されていたら、
お客さんはいっそううれしくて、
「ああ、いいな」
「来年も来たいな」
と印象にのこる催しになる、と言うんですね。

それは、お金を湯水のように使うというなら、
どんな派手なこともできる。
でも、派手なら人が喜ぶかというと、
世の中そうはできてない!
ってわけです。

ド派手なことを第一とするキンキラな会ならいざ知らず、
普通の人が集まる会では、
限られた予算で、
お客さんに喜んでもらいたいという気持ち
にじみ出ている工夫にはかなわないのです。
それをどんなふうにするかを考えるのが
また格別の楽しみだというのです。
わかる気がします。

友人のやった踊りの会に限らず、
なんにでも共通のことのように思います。

そのときは、
会場の通路のところに、暑い季節だったので
ぶっかきの氷の山を置いて、
ビールやらジュースやらをいっぱい並べておいて

ご自由にどうぞ!
というコーナーを作ってみたそうです。
ちょっと意外な感じで、だれもが
「ワッ!うれしい!ありがとう!」
という感覚で受け入れられるしつらえではないでしょうか。

そういうものをしつらえるということは、
そういう心で会を催しているわけで、
催しの会場全体にそれは滲み出てくるにちがいありません。
事実、その踊りの会は
友人がプロデユースしなくなってからは
お弟子の数もお客の数も減ってしまったそうです。
当日の出演者への声かけやら楽屋の雰囲気作りやら、
みんなの士気を盛り上げる役もやっていたとか。

表立っては出てこないそういう役割が
案外、屋台骨になっているんだってことを、
知っておきたいと思うし、
自分でもそういう役割を果たせる人になりたいものだと思います。

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