山本順之さんの姨捨を見た初心者の短い感想

山本順之さんの姨捨を拝見しました。

これまで何度かしか

能楽堂という場所へ足を運んだことがない初心者なのに・・

話の内容を少し読んでおいただけで・・

橋がかりをしずしずと出てくる老女の姿が

観客を別世界に運びました

お能の魅力のひとつって、こういうところかな、と感じました。

しがらみでもがく人々を、

すーっと静寂の中へ引き入れていく感じです。

所の者が姨捨山の伝説などを語るところでは、

初心者らしく眠くなってしまいました。

野村万作さんが朗々と滑らかに語っていたのに・・

二度目にシテが現れる姿は、

最初のときよりいっそう、

この世のものでない感じが漂っていました。

そして、完璧なまでにうつくしい佇まいだったと思います。

「はーー・・」

っと目を吸い寄せられる感じ。

囃子の荘重な音も大きな効果を生んでいるんでしょうか。

舞いの美しさ、声と言葉の格調の高さに圧倒されたというのか。

崩れのない美に触れると、

自分というものが清く矯正されるという気がします。

「有為転変」とか
「むかし恋しき」とか
「月に馴れ、花に戯るる秋草の」とか
「返せや返せ、昔の秋を」とかの言葉が、

聞いて快いです。

そうして、舞う老女も宴をともにする都人も、

やはり去って行くものであることを思う。

現在なんだかんだと小さなことに心を煩わされている

わたしたちもまた、去っていくもの。

どんなに嘆こうがどんなに名声を得ようが、

時間の流れとともにあるだけだ。

去っていったあとに、山々と月が残るだけなんだ。

と、茫然となりました。

はたしてこのお能が

こういうふうに感じるべきものなのかどうかはよくわからないけれど、

芸術って、こんなふうに

見た人が、考え方や生き方にまで影響を受けたり

精神的に洗われたりするためにあるのかもしれない、

などと思いました。

寄席のお話 ラジオで寄席の出囃子の話を聞きました 矢野誠一さんでした

お掃除しながらラジオをつけていたら、

寄席の話題が耳にはいってきました。

野崎村のお囃子を桂春団治が使っていたときは

聞くと芝居が始まるときのようにパーッと明るく華やかな感じがした。

そして、その同じお囃子を桂文楽が使ったときは、

能役者のようにしずしずと出てくる

黒紋付姿の文楽によく似合っているように感じた、

というんですね。

わかる気がします。

聞く方の経験や意識によって、

同じ音楽がまるで違って聞こえてくるんですね。

お芝居や落語などはそういうことがまた、

何度見ても何度聞いても

飽きるどころか味わいが増していく

ひとつの要素なんだと思います。

野崎村の音楽は

これから死のうとする男女二人が

上手下手に分かれ分かれに、舟と籠で舞台から去っていき、

それを見送るかわいそうな田舎娘が父親と二人、

そこに残されるという、

涙なくしては見られない場面なのに、

音楽が早間で明るいもんだから、

余計に悲しみが際だたされるというところ。

それから、古今亭志ん生の出囃子がかかりました。

これを聞いただけで、お客が笑顔になって、

期待の拍手が力強く響くという稀有な現象がいつも起きていて、

弟子の人が、

このときほど志ん生の弟子でよかったと思うことはない、

と言っていたんだそうで。

実際、わたしも志ん生の落語をテープで聞きますが、

テープでさえ、お客さんの拍手があらしのように鳴って聞こえます。


きょうは番組を、

お掃除をしながらなんとなく聞いていたにすぎないんですが、

興味があるのであとで調べてみると、

NHKカルチャーラジオ「芸術その魅力」という番組でした。

曜日や時間を調べて今度は真剣に聞きたい!

そうして、聞いているあいだ中、わたしは、

話し手は柳家小三治さんだと思っていたら・・

さにあらず・・矢野誠一さんでした!

小三治さんの声をそれほど聞き慣れているわけじゃないけど、

似てないかい??

以前、小林秀雄の講演テープを聞いて、

志ん生の声と話し方に

「似てないかい?」

と、思ったことがあるんだけど、

だれかそれに共感する人いないかな〜

いや〜、いい番組を聞いて、朝から気分が楽しくなりました。

志ん生の出囃子を聞く人々のように、

現在、顔が笑顔になってます。

古書展で買った

矢野誠一著『さらば、愛しき藝人たち』

を読みたくなって出してきました。

ルンルン[E:note][E:note]