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文化・芸術

見ごたえあるお芝居や踊りに共通のことって

ずいぶん大上段に構えたタイトルをつけちゃったんですが、

ちょっとそう思ったもので、自分で忘れないためにも

書いておくことにしました。

 

「隅田川」を観ました。

東劇でやっている歌舞伎クラシックの

歌右衛門・勘三郎のです。

 

この演目は、外国公演でいつも反響が大きかったというのもうなづける、と思いました。

内容が万国共通ということももちろんですが

言葉が通じなくても、ストーリーが振りでわかるようになっています。

 

最初から思い出していくと・・

舟人が、去年3月に人買いに連れて来られた少年が死ぬ場面を

語って聞かせるところの勘三郎の振りが、

ほどが良くって、情が伝わってきて、よかった。

そこに居合わせた人びとが少年をかわいそうに思って

寄り集まって泣きながらいたわってやり、

ついにみまかる少年を

みなで葬ってやったんだな、という様子が

思い浮かんでくる感じです。

 

墓へ班女の前を連れて行ってやり、悲嘆に暮れるのを見て

かわいそうだけれど諦めるしかない、というように、

あたりの花を摘んでやり、手渡すところも、

見知らぬ人どうしだけれど同情し、いたわる気持ちが

少ない動作で静かな中に表れていて感動します。

そうして、班女の前がうなづいてそれを受け取るところで

涙が出ました。

見ず知らずの人にいたわられて、

悲惨な運命を受け入れようとしているんだな、と

その気の毒さ、けなげさ、を思いやって。

 

班女の前は「狂女」だと思っていたけれど、このあたりまでは

まだ狂ってはいないんだと知りました。舟人に思いやりをかけられて

うなづいて花を手向けようと墓に向かって歩いて行くけれど、

前まで来ると思いが極まってきて、

なんだか息子の声が聞こえるようで、

花を手から一本二本と落としていく。そうするうちに狂ってきて

離れて見守る舟人のほうを、そのまた背後を見て、

息子の姿を見ているような素振りをするので舟人が

「さては狂ったか」という表情をします。

そのあたりの舟人の気持ちの変化も

振りで表されるのがよく伝わってきます。

 

舟人のそばまで戻ってきた班女の前は、

幼かった息子の姿を心の奥に見たのか

目を細めて笑います。

このあたりはまた泣けます。

ストーリーも心の動きも、みんな振りで観客にはっきりと伝わることに驚きです。

 

終わりにまた、墓にとりすがって泣くところでは、こちらもまた泣けます。

抑えた表現だからこそ、悲しみが、より深く伝わるという感じです。

 

それで、この舞台を見ているうちに感じたことには、

役の気持ちと役者さんの動作に

「切れ目がない」ということです。

たとえば悲しいということを表す動き(振り)をするとき、

それを表す振りにかける時間が

I—————————————I これだけあったとすると、この舞台では

I—————————————I これだけ、空白の時間なしに、

たるむこともなく続いています。もちろん振りがゆっくりだ

ということではありません。

I——I ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・I  いっぽう、その振りをして、あとはその形をして止まっている                     というのと違いがあります。 いくら顔で悲しそうな顔を作っ                      ていても、気が持続していなくて、次の動きまで空白になっ                     ているのと、違っています。

 

見ごたえのあるお芝居や踊りに共通なのは、これかもしれない、

と、この「隅田川」を見て、つくづく感じました。

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