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「義太夫を聴こう」と呼びかけるのはなぜ?

橋本治さんの小説の書き方は義太夫?
・・・まさにそうだと、ご本人が答えています。
それがどういう意味かはひと言では説明できませんが、
「ここでテーンと一拍はいる」とか考えて書くことはあるそうです。

義太夫を聞いたことがない日本人は今や多いでしょう。
けど、義太夫は橋本さんが小説を書く方法に影響を与えるほどに
わたしたちの生活のいろんなことに投影できるものです。
いい物は普遍的だ、ということでしょう。

一度も義太夫を聞かずに日本人やってんんじゃない!
なんて乱暴なことは言いたくはありませんが、
義太夫を好きなほうの人間は、
多少暴言ぎみと知りつつ、一人でも多くの人を聞きに行かせたい。

で、今はインターネット上でも義太夫を聴くチャンスがたくさんあります。
どれでもいいんです。
てきとうに選んで。
そうは言っても皆目選べん、という向きには、
メロディーがあって歌のようで聞きやすい
「道行き」がおすすめ。
美しくどこか哀しいメロディー、三味線の迫力、太夫さんたちの美声、
それらを一気に身に浴びると、
日本に生まれて良かった、なんて感じると思います。

それから、特徴は不幸なストーリー満載なこと。
「不幸」と言うと特別なことのようだけど、
わたしたちの毎日だって、
思い通りにならないことの連続です。
希望がかなえられない、
自分の才能のなさにいやになる、
手に入れたいものは手にはいらない。

「不幸」って人生にたった1回という大きなものばかりではなく、
だれもが心に悩みを、入れ替わり立ち替わり抱えているもの。
義太夫のストーリーにある「不幸」は、言わば
毎日なんとかがんばって生きているわたしたちと
重なるお話ばかりなんだな。
義太夫の登場人物たちを見ていると
隣りの人の苦しみもわかろうというもの。

となると、義太夫に臨んでは、
どんなお話かを、理解するのもいいけど、
道行きならなおさら、理解よりは
肌呼吸で行きましょう。
肌から義太夫を吸い込むのです!

「義太夫を聴こう」というタイトルは、
筆者の橋本さんがあるとき「とんでもなく特殊な理由で」
「今は義太夫を聴いている余裕なんかない」
と思っていたエピソードから来ているのではないでしょうか。
そういうときがあった自分だけど、
本来義太夫を流しっぱなしにして仕事をするくらい義太夫愛に満ち満ちているし
古典に接点を持たないなんてもったいないよ、聴こうよ、
っていう気持ちからかな、と勝手に想像しています。

対談に登場して表紙にもなっている鶴澤寛也さん、
じょぎのクールビューティーと紹介されているのを読んだことありますが、
ほんとうに女性も憧れるかっこよさです。

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