カテゴリー別アーカイブ: 文化・芸術

能 姨捨 を見に行く前に少しの予習をしたい 遅ればせながら

明日、山本順之先生の能、姨捨を拝見に行く予定です。

あまりにも何も知らないので
渡辺保『能ナビ』をちょっと読みました。

演劇を鑑賞するとき、
まっさらな状態で舞台に触れることは、
それはそれで大事な場合もあるでしょうが、
能については、それはあまり有効でないようです。
とくに初心者には・・

なぜなら、能は、ある昔の物語りがあって
その中で悲劇に見舞われた人が、
亡霊となって出てくることが多いからです。
どんな悲劇なのか、
なぜその人が亡霊になったのか、
なにを訴えたくてここに出てきたのか
を知らないと、感動することもできないからです。

この本の前書きとして「能との出会い」という部分があります。
そこに、台本の読み方が一番大切だと書かれています。
今後、トライしてみたいと思うのでメモしました。
それは、台本の読み方の手順です。

①台本を一度サラッと読む 日本名著全集『謡曲三百五十番集』など

②次に原作を読む 注釈やマンガなど、入り易いところからでよい

③もう一度台本を読む 今度は詳しい注釈がついている、岩波古典文学大系『謡曲集』や小学館新編日本古典文学全集『謡曲集』など

④原作を能の作者がどう変えたのかこだわって、どうして変えたのか考える

⑤台本を戯曲を読むつもりになって細部に分けて読む

そうすると、ドラマが頭にはいり、人物の動き、心持ちがわかるようになる。

・・と言うんですが、初心者にはかなりハードルが高そうです〜

歌舞伎はよく行くけれど、
能はほとんど行ったことがありません。

わたしには、賑やかな三味線や長唄がはいっているお芝居のほうが
親しみやすいっていう気持ちがあるもので。
庶民のものですしね。
武家の嗜みである能となると、敷居が高い感じがどうしもあって。

でも、山本先生の謡いや仕舞いを拝見したとき、

謡いは、
声の美しさはさることながら、
言葉の訴える力の奥深さに聞き惚れる感じがしました。
日本語ってなんて聞き応えがあるんだろうと感じ入ったのです。
ほとんど、謡いを聞いたのは初めてだったので、
何かわからないながら、素朴に魂に共鳴するものがあったんだと思います。

仕舞いは、
ごく短い中に、
稟とした形の美しさが寸分の乱れもなく凝縮されている感じがしました。
衣装でなく袴姿だから余計に
ストレートに伝わってくる飾りのそぎ落とされた決まり方でした。
日本の伝統芸能の美しさの粋がこの短い中に照らし出されていると思いました。

だから、よくわからないのに、こんどの公演を見に行くことにしました。

老いることの悲惨さ、
老人がどのようにして自分の安住の位置を発見することができるか、
を描いていて、
人間はやっぱり妄執を断ち切ろうとして断ち切れずに
生きているかぎり苦しむものなんだ。
それから逃れられる人は一人としていやしない。

生きている間に楽しいことはたくさんある。
楽しいことの数は人によって違う、平等なんかんじゃない。
だけど、ここにいる老女の霊も、
今は生きて月夜で宴を楽しむ都人も、
悠久の自然の時間の中では、たいして違った存在ではないのだ。

悲しみ恨み、もがき苦しむ人間の生は、そんなものだ。
苦しみに耐えかねて居もしない友をもとめる孤独の中にいるのは、
この老女の霊だけではない。
どの人間もそうしたものだ。

宵の秋風はそういう思いを起こさせ、
昔の秋をしみじみと恋しがらせる。
今ちょうど秋風が身にしむ時候だから想像しやすいかも。
悟ったと思ったり、
また妄執に落ちたり、
人間は生きているかぎりその間を行ったり来たりするのだろう。
生きながら姨捨山になった老女は
都人たちの目にはもう見えないけれど、
なにもそれは彼女だけがかわいそうなのではない。
形こそちがえ、すべての人が姨捨山になるってことなのだ。

この本で
「西欧の文化が全体をつねに見ようとするのに対して、日本の文化は細部を積み重ねることによって成り立っている」
というんです。
具体的にどういうことなのか、考えたいです。

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おとなが学ぶというのは

大田区区民大学の
「社会教育・生涯学習入門講座」
に参加しました。
現長野県佐久市、合併前の望月町町長・吉川徹さんが講師で、
ご自分の体験をもとに
地域で一人ひとりが輝いて生きるために、
どんな学びや活動を展開してきたのか、という内容でした。

おとなになってしまうと、
学びというと、どこかのスクールや公開講座のようなところへ行って勉強する、
ということのように考えがちですけど、そうとは限らないのです。
地域で生活する中で必ず、
何かもうちょっと改善する必要のある問題点があるはずで、
そういう点を学習課題化して
解決策を練り、ひとつの運動にしていくことが
おとなとしての大事な学習である、
というお話なんか、かなりうなずかざるをえませんでした。

町に、住民一人ひとりが主権者として仲間として
良い策を出し合う雰囲気をいつもつくってきたとのこと。

何か不満があると、国がいけない、行政がいけない、
と自分でなにもしないで言うだけでは、ことは好転していかない。
町ではしっかりとした自治が成り立つことを願って、
いろんな案件を、実行委員会形式にして
住民自身が主体となって取り組める環境作りをしていたという。
そういう土壌ができてくると、ものが言いやすく、
したがって、頭をひねっていろんな案を出そうという意欲も育ってくるのだ。

おとなの学習ってそういうふうに、
生活をもっと良くしよう、
もっと良く生きよう
という目的を達成するためにするものなんだと教えられました。
意見が対立したときには、相手の具体的な要求を知って、
どうやったら接点を見出すことができるのかを
けんめいに探す努力をするのが大切。
そうして、同じ願いを持っていることを知ったときに
互いに手をつなぐことができる喜びを味わい、
そこからまた、新しい芽が育っていく。
それが人が生きるってことのひとつの道筋なのかもしれません。
一人ではだれも生きていけないんですから。

都市と農村の立場の違いなども提示され、
消費者として生産者の立場をもっと配慮しなくちゃならないんだな〜
ということも感じました。
野菜など作物は安すぎる!
というのももっともだとは思うんですよね。
スーパーで野菜、安いですもんね、確かに。
ネギ3本98円とか、
キュウリ3本100円とか、
農家からしたら、冗談じゃない!
っていう値段だと思います。
裕福でない私はそれで生活が助けられてるんですけど。

地域課題の学習課題化、頭に入れて生活したいです。

文楽 杉本文楽 曽根崎心中

神奈川芸術劇場で行われた

杉本文楽『曽根崎心中』

に行きました。

「見に行った」と書こうとしましたが、かなりの割合で「聴きに行った」とも言えるので、ただの「行きました」にしました。
国立小劇場で見るのと、舞台の作りが違うので随分異なっていました。

天井桟敷とも言うべき席で見たので余計に。
作曲・演出 鶴澤清治とのことでした。誰も見たことのない曽根崎心中のオリジナル。

2008年に黒部で初版完全本が発見された、というのは、驚きです。
まだそんな「発見」なんてことがあるのかと。

文楽の人たちは、いつも感心しますが、この公演でも熱演でした。

この高等な技術を毎日の血の出るような稽古で身につけたんだろうな、ということがこちらに伝わってきます。

豊竹嶋大夫の天満屋の段は、清治さんという弾き手の横で、もはやさらさら流れる小川のような、自然な語りとなっていたような気がしました。

「嶋大夫だ。そう思って心して味わっていこう」

と始まる前に思っていたにもかかわらず、

話のなりゆきに引き込まれて

はらはらしたり笑ったりしているうちに、

嶋大夫清治の二人が引っ込んでいっちゃった〜・・

という感じでした。
たった3日間の公演でした。
9月には通常の国立劇場での公演も控えている中、出演者の人たちはさぞ稽古もたいへんだったと思います。
9月もまた熱演を楽しみに劇場へ行くつもりです。

NHK骨董番組を見ました

NHKで、尾久彰三氏と樹木希林が鶴岡に伊万里を見に行く番組を見ました。番組名忘れました[E:catface]30分番組。
「オギュウ」氏と聞いたとき、知らない人だと思ったら、元日本民藝館の学芸員とのこと。
それならたしか、自分が集めた骨董の写真を載せた著書があって私も見た覚えがありました。
そこで、ごそごそと本棚を探すと、別冊太陽『柳宗悦の世界』の監修にも、そのお名前が見えました。こちらは主任学芸員時代のお仕事らしいです。
番組では、古民藝を集めすぎているこまった人、のようにしてちょっとおどけた役回りを演じていましたけれど。

なにしろ、建坪20坪ほどの建て売り住宅に所狭しと並べられた古い物、という実態が画面に映し出されたところは、われわれ庶民に希望の光をもたらしました。[E:shine]
つまり、古民藝愛好者には稀な、うちとおんなじくらいの家だ!という光です。

ところで、鶴岡という土地には伊万里が多いというのは骨董愛好者には常識になっているそうです。街歩きをしたら楽しいことでしょう。
土地の人が使っていた古いものを、街の骨董屋さんに売りにきた品物って、生活の匂いが伝わってくるようです。
どんな職人さんが焼いて、
どんな商売の家で使われたのか、
どんな食べ物が盛られ、
もしかしたら「くらわんか皿」として河原に捨てられてしばらく雨風にさらされていたこともあるのか、
または、街の家の台所で戸棚から出しては使われ、川の水で洗ってはしまわれて、何十年もの間を過ぎてきたのか・・
そう考えると小さな皿一枚から、想像はふくらんでいきます。
骨董の魅力は、私にとってはそんな部分にもあります。

番組の中で「Milk」という、一見ふつうの、道路沿いの喫茶店が紹介されました。
その店のマスターが伊万里収集家で、店の奥にギャラリーを併設して売ってもいるとのこと。落ち着いた感じのそのスペースは、ちょっと外からのイメージと違うものでした。
その様子を見て、以前、古本屋さんが本を買い取りに個人の家に行く話を読んだのを思い出しました。
外から見て随分立派な「豪邸」であるにもかかわらず、蔵書がノウハウ本や百科事典や雑誌ばかり、という家がある。
一方、小さな、崩れそうなあばら屋で、「これは・・」という古書の数々や読む人の人柄が偲ばれる立派な蔵書が並んでいる場合がある、という内容でした。
もちろん、外見と中身が一致していることだってたくさんあるんでしょうが、ゆかしい話で、あばら屋派としては、せめて蔵書は!なんて思って励みになるお話ではありました。[E:confident]

古民藝を使って味わう。そうして、良き物のエッセンスを心身に吸いこんで暮らしたいと思いましたし、骨董屋さんや美術館に行きたくなりました。